アン女王とは?グレートブリテン王国最初の女王の生涯を辿る!

2020/8/18|著者: アンティークコインタイムズ編集部

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現在のイギリスの基盤となるグレートブリテン王国最初の女王、アン・ステュアート。映画「女王陛下のお気に入り」で名前を知っている人もいるでしょう。

アン女王は現在のイギリスにつながる王国最初の女王です。しかし、そんな彼女の生涯はあまり語られることがありません。

アン女王はどのような生涯を過ごしたのでしょうか?この記事では、アン女王の生涯について、当時のイギリス社会や文化とともに詳しく解説!

また、幻の「アン女王のギニー金貨」についても紹介していきます。

 

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アン女王とはどんな人物?

そもそも、アン女王とはどのような人だったのでしょうか?アン女王の生涯を辿る前に、その人物像について紹介します。

アン女王の性格

アン女王の性格は、一言で言うと活発。勉強よりもスポーツ好きで特に乗馬を好んでいました。

彼女は歴代の女王の中でも、「お淑やかなお姫様」というタイプではありません。読書や芸術に興味はなく、屋外で馬に乗っている方が好きな女性だったのです。

また、アン女王は好き嫌いが激しいことでも知られています。女王に即位後は周囲の使用人たちを実務能力ではなく、自分の「お気に入り」であるかを基準に選別しました。アン女王にとっては、「優秀であるかどうか」よりも「自分を愛してくれるかどうか」が重要だったのです。

その結果、アン女王時代の宮廷は重要ポストに多くの女性たちが起用。アン女王時代のイギリス王室は、女性が最も活躍していた時代になりました。

しかし、女王の好き嫌いで決められた人事はすぐに崩れ始めます。女王に気に入られようと密告や陰口などが激しくなり、分裂を引き起こしたのです。このことからも、アン女王の好き嫌いは問題ある性格と言わざるを得ないでしょう。

 

極度の肥満体質!?

乗馬好きで活発だったアン女王。しかし、歳を取るにつれて極度の肥満体質に悩むようになりました。

原因はお酒の飲み過ぎと言われています。特にブランデーが大好きで、「ブランデー・アン」と呼ばれるほどでした。

肥満は年々ひどくなり、外出の際は必ず輿を利用。戴冠式の時も輿に乗ってウエストミンスター寺院へ向かった、という逸話すら残っています。

そして、晩年では自力で歩けないほどにまで太ってしまいました。宮廷内の移動には車椅子を使用していたと言います。

死ぬまで体重は減らなかったため、アン女王の逝去後の棺桶は正方形に近いものだったという逸話も残っているほどです。

 

映画にもなった友人サラとの関係

さて、アン女王には幼い頃に知り合った唯一無二の親友がいました。映画「女王陛下のお気に入り」の題材であるサラ・ジェニングスです。

アン女王の義母の女官だったことから、アン女王は彼女との親交を深めていきました。ちなみに、サラの夫ジョン・チャーチルは後のイギリス首相ウィンストン・チャーチルやイギリス皇太子妃ダイアナ・スペンサーの先祖でもあります。

アン女王にとってサラはどんな時も精神的な支えでした。名誉革命の大変な最中でもサラはアン女王に同行し、励まし続けたのです。そのため、アン女王はイギリス女王に即位後サラに王室女官の最高位を与えました。そして、政務などに関して様々な助言を求めるようになったのです。しかし、そんなサラとの友情は徐々に崩れていきました。

アン女王はサラに対して常に自分の味方でいて欲しいと考えていましたが、サラは自分の立場から意見を言うようになったのです。女王が望むほどには宮廷に姿を見せず、アン女王が支持する和平派ではなく主戦派の政党を支持しました。これはサラの夫チャーチルがホイッグ党支持者だったからです。

アン女王にとって、親友と呼べる人物が自分と異なる意見を持っていることは我慢ならないことでした。そのため、最終的にアン女王はサラを宮廷から追放し、二人の友情は終わりを告げたのです。

こうしてみると、アン女王という人物は好き嫌いが激しいだけではなく、いかに「自分だけを見てくれるか」を気にしていたことが分かりますね。

 

アン女王の生涯と治世

ここからはいよいよ、アン女王の生涯について解説していきます。

当時のイギリス社会についても分かりやすく説明しますので、イギリス史に興味がある人必見です!

悲しみが多かった幼少期

アン女王は、ヨーク公であったジェームズ2世と平民出身のアン・ハイドの次女として1665年に誕生。プロテスタントとしての教育を受けて育ちました。

3歳の頃、彼女は目の病気の療養としてフランスに赴きますが、その3年後に母アン・ハイドが亡くなります。また、アン女王には8人の兄弟がいましたが、無事に成人できたのはアン女王とその姉メアリーだけでした。

実母を亡くした傷も癒えないまま、父ジェームズ2世はすぐに後妻を迎え、アン女王と姉メアリーには7人の異母兄弟ができます。しかし、その彼らも次々と天逝し、18歳を超えるまで生きたのは後に老僭王と呼ばれるジェームズ3世とルイーザ・マリア・テレーザのみです。

アン女王の時代である17世紀から18世紀は、黒死病や天然痘などの感染症、猩紅熱などの病気に罹る乳児や幼児が多くいました。その上、現在のように「ワクチン」や「予防接種」などはもちろん存在していません。そのため、アン女王の兄弟たちのように王族の子であっても、幼くして亡くなることは珍しいことではありませんでした。

こうして、幼くして身近な人たちを亡くしたアン女王。この経験から、他人よりもより愛情を欲する性格になったのでしょう。

 

結婚と17回の妊娠

アン女王は、1683年に18歳でデンマーク・ノルウェー王の次男ジョージ・オブ・デンマークと結婚。夫婦仲はとても良く、なんと17回も妊娠しました。

しかし、不幸なことに12回もの流産・死産を経験します。そのうえ、無事に産まれた子供も天然痘や猩紅熱によって亡くなりました。この原因は、アン女王が「抗リン脂質抗体症候群」という自己免疫疾患を持っていたからだとされています。この病気は流産を習慣化させるという恐ろしい一面を持っているのです。

それにより、アン女王の子女は残念なことに誰一人として成人することができませんでした。このことがきっかけでアン女王は精神的不安定となり、お酒に逃げるようになったと言われています。

そして、この不幸な出来事は後の後継者問題にも影響を及ぼしました。これに関しては、後述に詳しく記載します。

 

名誉革命により一気に王位継承者へ

アン女王は元々はそれほど王位継承権が高い方ではありませんでした。しかし、それをひっくり返す出来事が起こります。それが、1688年の名誉革命。別名「無血革命」とも呼ばれ、内戦にしては珍しくそれほど血が流れなかったことで知られています。

名誉革命は簡単に言えば、キリスト教の宗派であるカトリック教徒とプロテスタント教徒との争いが原因です。アン女王の父ジェームズ2世はカトリック教徒であり、カトリック重視の人事にイギリスの人々は不満が募っていました。

当時のイギリス社会(イングランド)では、カトリックよりもプロテスタントの支持が強く、カトリック教徒のジェームズ2世はあまり歓迎されていなかったのです。

最終的にジェームズ2世は追放され、アン女王の姉メアリーとその夫ウィリアム3世が王位に就きました。この姉夫婦には子供がいなかったため、血縁でありプロテスタントの教育を受けたアン女王が王位継承者とされたのです。

もちろん、アン女王の性格上すんなり王位継承という形にはなりませんでした。友人サラとの関係を巡って姉と対立し、一時は宮廷から追放されます。

しかし、姉メアリーが1694年に亡くなってからは義兄であるウィリアム3世と和解し、1702年にイギリス女王として即位。アン・ステュアートではなく、アン女王としての日々が始まりました。

 

女王としての即位とグレートブリテン王国の誕生

アン女王の即位後、早速問題が起こります。スペイン継承戦争の勃発です。これはスペインの王位継承を巡り、ヨーロッパ全体で行われた戦争になります。ヨーロッパ大陸では国々の結びつきが複雑であり、一つの国の王位継承に様々な国が干渉することが多くあるのです。

アン女王はこのスペイン継承戦争の司令官に、友人サラの夫ジョン・チャーチルを任命しました。そして、結果的に戦争を勝利へと導き、ジブラルタルという海外領土を獲得したのです。

一方で、スペイン継承戦争に反映して起こったアメリカでの戦争(別名アン女王戦争)は決着つかずじまいでした。また、この戦争の最中にアン女王はとても偉大なことを成し遂げます。イングランドとスコットランドの合同法を成立させ、グレートブリテン王国を誕生させたのです。

そして、彼女はグレートブリテン王国最初の女王となりました。

 

「アン女王の贈り物」により国民の人気者に

また、アン女王はイギリス内の貧しい人々への救済にも尽力します。教会の十分の一の税金と王室収入の一部を貧民救済に使ったのです。これは「アン女王の贈り物」として親しまれ、イギリス国民から大きな人気を得ました。

 

アン女王の晩年

名誉革命や不幸な出産、戦争に連合王国の成立など数々の出来事に向き合ってきたアン女王。その晩年も穏やかとは言い難いものでした。

まず、前述にある通り、意見の食い違いなど様々な原因がもとで友人サラと決別してしまいます。長年の友人との別離に苦しみながらも、アン女王は女王としての公務に勤しみました。

和平推進派の政党を支持し、戦争を推進しなくなります。そして、スペイン継承戦争を和平へと導き、1713年にユトレヒト条約を締結してスペイン継承戦争を終わらせました。その上、イギリスにいくつかの海外領土を獲得させたのです。

女王としても、一人のイギリス女性としても、怒涛の年月を送ったアン女王。そんな彼女は、脳卒中により1714年に49歳の生涯に幕を下ろしました。

 

アン女王死去後の後継者問題

アン女王の死後には重大な問題が残ります。次の王位継承者を決める後継者問題です。前述の通り、アン女王には子どもがおらず、唯一の肉親である姉夫婦にも子どもはいませんでした。

たった一人、異母兄弟であるジェームズ3世が後継者として生存していましたが、カトリック教徒ということで王位に就かせることはできません。当時のイギリス国民の心情は「プロテスタント主義=愛国心」というものだったのです。

こうした宗教的な問題で後継者選びは難航したものの、最終的ににドイツ家系のゲオルク(ジョージ1世)が後継者となりました。その結果、1371年から続くイギリスのスコットランド起源のステュアート王朝はアン女王で断絶することになります。

アン女王はグレートブリテン王国最初の女王でもあり、ステュアート王朝最後の女王でもあるのです。

 

アン女王とイギリス文化

さて、ここからはアン女王とイギリス文化について紹介していきましょう。

イギリスのティータイムの生みの親

イギリスといえば、「紅茶」を思い浮かべる人が多いでしょう。実はこの「お茶を飲む習慣」を定着させたのが他ならぬアン女王です。

アン女王はブランデー好きな他に、美食家でもあり紅茶好きとしても知られていました。お茶会だけではなく、朝食でもたっぷりの紅茶を飲んでいたと言います。

また、当時は高級品だった茶葉や砂糖を惜しみなく使うアン女王の習慣は徐々にイギリスの上流貴族に広まっていきました。そこから、現在のブレックファーストティー(朝食時に飲むお茶)が確立したと言われています。

そして、洋梨をモチーフとしたティーポットや美しい装飾のティーテーブル付きの茶室でお茶を飲む「クイーン・アン・スタイル」という、ティータイムも確立しました。その結果、現在のイギリスでは1日に4〜5杯の紅茶を飲むのが普通になりました。また、名前がつけられている代表的なティータイムがなんと10個もあります。

全てのイギリス人がこのティータイムを行なっているとは言えませんが、少なくともアン女王の時代から日常的にお茶を飲む習慣がついたことは間違いないです。ちなみに、王室御用達のフォートナム&メイソンの紅茶「クイーン・アン」はアン女王が由来になっています。

 

世界初の著作権の施行

読書はあまり好まなかったアン女王ですが、本の世界にある貢献をしていました。「アン法」と呼ばれる著作権の施行です。

当時は「書物やその他の書かれた物」を保護する法律とされ、1710年に施行されました。イギリスで初めての著作権法であり、世界初の本格的な著作権法でもあります。これによって、18世紀では『ガリバー旅行記』などの文学が栄えました。



レアコイン「アン女王の5ギニー金貨」

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さて、最後にアン女王に関するアンティークコインのお話を紹介します。それは、「アン女王のギニー金貨」です。アン女王の横顔が刻印されており、その髪型やドレスに至るまでとても優美に描かれたコインになっています。

こちらは発行年月が短く希少性が高いことで有名であり、その希少性は人気のある5ポンド金貨の約10倍はあると言われています。そのため、ほとんど市場に出ておらず幻のコインとされています。

1703年のアン女王5ギニー金貨VIGOは現存枚数が20枚と非常に少ない状態です。

市場の値上がりも激しいため、カタログなどの価格はあまり当てにならないため、注意してください。



まとめ:現在のイギリス王国の礎になったアン女王の生涯を知ろう!

グレートブリテン王国最初の女王として君臨しつつも、ステュアート王朝最後の女王として亡くなったアン女王。

この記事では、彼女の怒涛に満ちた生涯について紹介してきました。複雑な人間関係に度重なる不幸な出来事、それによる身体の不調。

アン女王の生い立ちからその晩年までを辿ってみると、彼女の性格だけでなく当時のイギリス情勢による影響も大きかったことが分かります。

それでも、連合王国を誕生させて現在のイギリス王国の礎を築いたアン女王は立派に王族としての務めを果たしたと言えるでしょう。

 

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タグ: イギリスの歴史

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