英国王ジョージ1世は英語が話せなかった!?その破天荒な人生とは

 

ジョージ1世は、直系の跡継ぎが絶えてしまった英国王室が、女系の血を頼ってドイツから迎え入れた王です。ハノーヴァー選帝侯であったゲオルクがジョージと英国風に名前を変えてイギリス王になったものの、英国民のあいだで彼の人気は散々でした。

 

また、「事実は小説より奇なり」を地でゆく私生活も、不人気に拍車をかけてしまったのです。英国王室の歴史の中でも特異の存在感を放つジョージ1世とは、どんな王であったのでしょうか。

 

 

血筋はピカイチ!ジョージ1世の家系

イギリスの王室は女性も即位できるうえ、女系の跡取りも認めていることで知られています。たとえば、かの有名なエリザベス1世は「処女王」と呼ばれましたが、正式な結婚はしませんでしたから跡継ぎはいませんでした。

 

エリザベス1世のあとに英国王となったのは、英国王室と縁戚関係にあったスコットランドのジェームズ6世でした。彼が英国王ジェームズ1世となり、スチュアート王朝が始まります。

 

そのスチュアート王朝も、アン女王が跡継ぎを残さないまま亡くなります。英国王室は血筋をたどり、ジェームズ1世の曽孫にあたるハノーヴァー選帝侯ゲオルク・ルードヴィッヒに継承させることになったのです。イギリスでの名前は、ジョージ・ルイスとなります。

 

その血筋をたどると、ジョージ1世の母ゾフィー・フォン・デア・プファルツの母が、ジェームズ1世の娘エリザベート・スチュアートという関係。

 

父の家柄はというと、こちらも中世ヨーロッパの名門デステ家につながる家系です。1692年にハノーヴァー選帝侯となったエルンスト・アウグストがジョージ1世の父にあたります。とはいえ、アン女王が跡継ぎを生んでいれば、ジョージ1世はドイツの一貴族としての一生を全うしたはずでした。まさに、棚ぼた式に転がりこんできた英国王位であったのです。

 

家系的に見れは非の打ち所がないジョージ1世でしたが、父母双方の家系とも異性関係では問題が多かったといわれ、英国の歴史の中でも暗部といわれるハノーヴァー朝の悲劇の萌芽は、ジョージ1世を迎えた時点で垣間見えていたのかもしれません。

 

 

美貌の妻を捨てて醜女の愛妾たちを身近に

 

1660年生まれのジョージ(当時はまだゲオルク)が結婚したのは、1682年。

 

この結婚の経緯からして、すでにドラマのような様相を呈していました。まず、ジョージ1世の母ゾフィーは、プファルツ選帝侯の娘でありボヘミア王女でもありました。彼女は当初、ジョージ1世の父の兄と婚約していたのです。

 

ところがエルンストの兄ゲオルク・ヴィルヘルムはゾフィーを嫌い、婚約を破棄。身分は低くても輝くように美しいエレオノーレという女性と結婚しました。ゲオルク・ヴィルヘルムとエレオノーレの間に生まれたゾフィー・ドロテアが、ジョージ1世の妻となったのです。

 

つまり、ジョージ1世の母ゾフィーにとっては、自分を振った男の娘が息子の妻になるという関係で、姑と嫁の仲は始まる前から最悪でした。

 

また、当時のジョージ1世は野戦に出ることが趣味の野蛮な男性であり、近隣に知れた美貌、持参金はツェルレの領地というわけで、引く手あまたであったゾフィー・ドロテアにとっては、夫婦仲も地獄という環境に投げ込まれたことになったのです。

 

一説によると、ジョージ1世の母ゾフィーは天然痘を患って醜い容貌であったといわれ、息子のジョージ1世の審美眼も普通の人とはかなり様相を異にしていたそうです。つまり、美女に興味がなく、次々に作る愛妾は異常な肥満であったり、とんでもない背丈があったりと、当時の美の基準からはまったく外れた女性ばかり。

 

姑のゾフィーと夫のジョージが、がこうした醜い愛妾ばかりをかわいがるのを見て、ゾフィー・ドロテアは怨念を募らせてしまうのです。それでも、1683年には長男ゲオルク(のちの英国王ジョージ2世)、1687年には長女のゾフィーが生まれました。

 

しかし、宮廷での生活に耐えられられなくなったゾフィー・ドロテアは、愛人を作ります。これに憤ったジョージは、ゾフィー・ドロテアをアールデン城に幽閉。幽閉生活は、28歳から60歳の死までなんと32年に及ぶことになったのです。

 

ジョージ1世はさらに、ゾフィー・ドロテアの肖像画もすべて処分してしまいます。息子のジョージ2世が母を慕い、隠し持っていた肖像画だけが現在まで伝えられたのです。おどろおどろしいお話ですね。

 

イギリスの王となったジョージ1世の治世

ゲオルクがジョージ1世として英国王となったのは、1714年。ジョージ1世は、54歳でした。

 

王妃がありながら幽閉し、戴冠式を1人で行い、お世辞にも美女とはいえない愛妾たちを同道するジョージ1世を見てロンドン市民は落胆します。美女と名高い王妃ゾフィー・ドロテアの身上を思い、彼女への同情もしきりでした。

 

さらに、英国王となりながらジョージ1世は英語をまったく解さず、英国の政治の仕組みにも無関心でした。

 

政治に関しては最小のロバート・ウォルポールに丸投げし、自分は領地であるハノーヴァーとロンドンを行ったり来たり、どちらかというとハノーヴァーに滞在することのほうが多かったそうです。

 

不思議なことに、ジョージ1世が政務を重臣たちに任せきりになったことが、結果的に後世の「国王は君臨すれども統治せず」という英国王室の伝統を生み出すことになるのです。

 

外交面に関しては、当時はヨーロッパの大国であったスペインに対して、ジョージ1世の英国はフランスやオランダと組んで対抗しています。

 

また、アン女王の跡を継いで英国王となったジョージ1世を排斥する動きも英国内には長く残りました。スチュアート家のジェームズ2世には、イタリア貴族の妻との間に男子が1人いたのです。

 

カトリック教徒であったこの息子ジェームズ・フランシスはフランスに亡命したのですが、彼を担ぎ出す動きも決して小さくなかったのです。英国と対峙していたスペインが、ジェームズ・フランシスを利用してスコットランドを攻める動きがあったりと、18世紀のヨーロッパは波乱の時代でした。

 

ジョージ1世の不幸な家庭

国内外のさまざまな動乱のほかに、ジョージ1世は家庭内にも爆弾を抱えていました。それは、のちにジョージ2世となる息子との相克です。

 

幼くして母を奪わエれたジョージ2世の父への憎悪はすさまじく、またジョージ1世も息子に数々の嫌がらせを行ったと伝えられています。父子のこの悲しい関係は、ハノーヴァー朝の特徴として遺伝的にのちの王たちにも伝わってしまうのです。

 

ジョージ1世は、1772年に67歳で亡くなりました。

その死も、ミステリアスです。

 

1772年6月3日、ロンドンからハノーヴァーに向かっていたジョージ1世に、1通の手紙が舞い込みます。それは、前年に亡くなった悲劇の王妃ゾフィー・ドロテアからの遺言状であったのです。そこには、「神の裁きの庭で私と会うがよい。断罪を受けるのは、私ではなくあなただ」と記されていたそうです。これを読んだジョージ1世は恐怖に襲われ卒倒し、心臓発作で亡くなったといわれています。

 

英国ではまったくの不人気であったジョージ1世ですが、当時の記録では英語は解さなくともラテン語やフランス語にも通じており、控えめで温厚な性格であることも伝えています。また、財政の分野では慎重で賢明な判断もできた王でした。

無骨なドイツ人らしく、ジョージ1世は不器用な人であったのかもしれません。

 

ジョージ1世のアンティークコイン

ジョージ1世の5ギニー金貨の表面には、月桂冠を戴くジョージ1世の右向きの肖像が描かれ、裏面には交叉する王笏(おうしゃく)と王冠を戴く4つの紋章が描かれています。

 

4つの紋章はそれぞれ、フランス、アイルランド、イングランドとスコットランドの連合軍、ハノーヴァーのもの。コインには、これらの紋章のほか、神聖ローマ帝国の選帝侯であることもラテン語で刻まれています。 

 

また、ジョージ1世は1714年54歳で即位したため、コインに描かれた肖像も、やや年齢を感じさせる丸みをおびた顔つきになっています。

 

ジョージ1世のアンティークコインの発行枚数は不明ですが、1716年、1717年、1720年、1726年の4年間しか発行されておらず、さらに、5ギニー金貨の中では発行枚数がもっとも少ないとされており、非常に入手が難しい激レアコインです。状態にもよりますが、価格相場はおよそ500万~2,000万円程度。

 

現在では、市場でこのコインを見かけること自体が非常に稀な貴重なコインです。英国王室の転換点であり、激動の18世紀のヨーロッパの遺品として価値ある1点といえるでしょう。



終わりに

スチュアート家がスコットランドから迎えられたように、ハノーヴァー家もドイツから英国に迎えられた家系です。同じように外国から王になったにもかかわらず、両家のイギリスにおける存在は大きな相違がありました。

 

ハノーヴァー家初代のジョージ1世は、英国民からまったく人気を得ることもできませんでした。しかし、本人もそのことをさほど気に病まず大全としていたことを考えると、王らしい王であったといえるでしょう。

 

最近は、ジョージ1世の功績を見直す動きもあります。

なによりも、英国王室の血を次世代につなげるという点においては、大きな役割を果たした王といえるかもしれません。