ソリドゥス金貨とアウレウス金貨|古代ローマ帝国の貨幣と変遷

 

アンティークコインと一言にいっても、時代区分はかなり幅広いのが特徴です。近代の端正なコインを好む人もいれば、中世の無骨なつくりの貨幣に魅力を感じる人も多いはず。

 

もちろん、1000年の歴史を誇った古代ローマ帝国のコイン(たとえば、ソリドゥス金貨やアウレウス金貨など)は鉄板の人気を誇ります。ご贔屓の皇帝たちの横顔が刻まれたコインがどうしても欲しい、という方も多いことでしょう。

 

今回は、古代ローマ帝国時代の貨幣の変遷についてご紹介したいと思います。

 

 

ローマ帝国建国前の貨幣(スターテル金貨、デナリウス銀貨)

▲ポンペイの遺跡から発見されたアレクサンダー大王のモザイク画

 

ローマの建国は紀元前753年、その創設期から王政の時代(紀元前753-509年)、また初期共和制の時代には、青銅片や家畜が通貨の代わりとして流通していました。

 

ローマに比べて先進国であった古代ギリシアとその周辺の世界ではそのころ、スターテルと呼ばれる硬貨が普及していました。現在スターテルと呼ぶコインは、ポリスと呼ばれていたギリシア人たちの都市ごとに鋳造されていた貨幣の総称です。現在まで残るスターテル貨幣には、マケドニアのアレクサンダー大王やその宿敵であったペルシア王のダリウスの姿が残り、まさに古代のロマンを堪能できます。

 

いっぽう、地中海を中心に大国化が進んでいた古代ローマで貨幣が登場したのは、紀元前3世紀のこと。このとき鋳造された「デナリウス」は、ローマの経済基盤が安定したことを示す象徴的なできごとでした。ちょうどローマが、地中海の制海権を巡って大国カルタゴと争っていたポエニ戦役の時代です。デナリウス銀貨は、領土拡大のために必須であったローマ兵たちの給料にも使用されたため、その重要度が一気に上がり普及することになったのです。

 

ローマ帝国の基盤を作ったユリウス・カエサルも、家門の象徴であったヴィーナスやカエサを刻んだデナリウス銀貨を発行しているほか、暗殺直後にも彼の肖像画描かれた銀貨が鋳造されています。

 

アウレウス金貨|ローマ帝国建国、初代皇帝アウグストゥス

▲ローマ帝国初代皇帝アウグストゥス

 

古代ローマにおける金貨の発行は散発的でした。最初の金貨の発行は紀元前87年、当時の権力者スッラによるものです。その後、ユリウス・カエサルがガリアを征服したことにより金の流通が盛んになり、金貨の発行も頻繁に行われるようになりました。

 

ユリウス・カエサルが暗殺された後、彼の跡を継いで初代ローマ帝国皇帝となったアウグストゥスは、紀元前23年に通貨制度改革を実施しました。これは、内戦が終わりイベリア半島やエジプトから大量の金が流入した結果、貨幣の価値が不安定になったことがきっかけでした。

 

貨幣改革ではまず、内戦中に価値が激減していたデナリウスを復活させ、それまでは小さな銀貨で流通が少なかったセステルスを27gの大型に改変。このセステルスを、アウグストゥスはプロパガンダとして使用するようになるのです。

 

そして、広大な帝国中から集まる金によってアウレウス金貨の鋳造も問題がなくなり、定期的な発行が可能になりました。アウグストゥスによって、1アウレウス金貨=25デナリウス銀貨=100セステルティウス銅貨と定められました。

 

アウレウス金貨は、4世紀にソリドゥス金貨が登場するまでローマ帝国の基軸貨幣として継続していくことになるのです。

 

アウレウス金貨からソリドゥス金貨までの貨幣の変遷

 

ローマ帝国はその後、地中海世界を中心に広大な領土を維持し、繁栄を続けます。アウレウス金貨は、古代ローマ帝国の栄光を伝える歴史の遺産といってもよいでしょう。それぞれの皇帝が残した貨幣の一端を見てみましょう。

 

①ティベリウス帝

ローマ帝国の2代目ティベリウスは、アウグストゥスの実子ではありませんでした。ティベリウスの母リヴィアは大変な美女で、名門クラディウス家に嫁いでいました。ティベリウスの弟ドゥルーススを妊娠中、アウグストゥスがリヴィアに一目ぼれし妻にしたという経緯があります。

 

アウグストゥスとリヴィアには子供が生まれなかったため、ティベリウスはアウグストゥスの養子となって2代目皇帝となります。正統性の誇示のためにティベリウスは自身の肖像画とともに神格化したリヴィアをコインに刻みました。

 

金貨も銀貨も同様の意匠ですが、高い鼻梁を誇るティベリウスの横顔からは堅実な手腕を振るった皇帝としての気品が漂います。

 

②ネロ帝

暴君の代名詞となってしまったネロは、ローマ帝国の5代皇帝です。母アグリッピーナは3代皇帝カリグラを兄に持つ気の強い女性で、ネロはその影響下で育ちました。

 

高名な哲学者セネカに教えを受けたネロは、若き頃の治世はなかなかうまくいっていたという説もあります。ギリシア文化オタクであり、後年の失敗はともかく教養は高い皇帝でした。

 

コインに刻まれたネロの横顔は、中年になるにしたがって肥満度が目立つようになるのも興味深いところです。アウレウス金貨の1枚には、ネロとともに閉まった門が刻まれています。これは、平和の時代には閉まっていた「ヤヌス門」と考えられています。帝国の平和を象徴するコイン、というわけですね。

 

③トラヤヌス帝

古代ローマ帝国の最盛期に君臨した5賢帝。その中でも「至高の皇帝(optimus princeps)」の称号を元老院から受けたのがトラヤヌス帝です。彼は帝国史上初、属州出身の皇帝でした。非常にまじめな性格であったトラヤヌスの時代に、ローマ帝国の領土が最大限に広がります。

 

ダキア、ナバテア、パルティアを征服するなど、トラヤヌス帝は武人として優れていただけではありません。現在まで残るトラヤヌス帝の市場などの公共設備の充実にも熱心でした。その彼がパルティア征服後に鋳造したアウレウス金貨には、至高の皇帝にふさわしい太陽神ソルが描かれています。

 

④カラカラ帝

現在もローマに残る広大な「カラカラ浴場跡」で有名な皇帝は21代目。ローマ帝国の住民すべてにローマ市民権を付与した皇帝としても知られています。

 

カラカラ帝はまた、貨幣制度の改革も行いアントニヌス銀貨を鋳造しています。カラカラ帝は数多くの銀貨を発行していますが、実弟を殺すなど冷酷な性格であったカラカラ帝、彼の彫刻がほとんど仏頂面なのに対し、コインの横顔は静謐で威厳があるのが特徴。鷲やヘラクレスなど、権力者にふさわしいデザインを好んだようです。

 

ソリドゥス金貨|コンスタンティヌス帝の貨幣

▲ローマに残るコンスタンティヌス帝の凱旋門

 

307年に発行され、実質的な意味ではともかく理論上は1453年まで流通したのがソリドゥス金貨です。ソリドゥス金貨は、306年に皇帝となったコンスタンティヌス帝の貨幣制度改革から生まれました。「大帝」と称されるコンスタンティヌスは、帝国内にキリスト教を公認し、自らもキリスト教徒となった初めての皇帝でした。

 

コンスタンティヌス帝は財政の安定をはかるために、それまでのアウレウス金貨の代わりとして「堅固な(Solidus)」通貨を採用しました。これがソリドゥス金貨です。1ローマ・ポンドから72枚の金貨が鋳造可能で、1枚の重さは4.55g。度重なる法規制によって金本位制を維持したため、西ローマ帝国滅亡後も地中海世界における信用度は群を抜いていました。

 

いっぽう、ソリドゥス金貨よりも直径は小さく厚みがあるアウレウス金貨も鋳造は続行しています。しかし、帝国の基本通貨はソリドゥス金貨へと変わりました。コンスタンティヌス帝はまた、ソリドゥス金貨の24分の1の価値を持つシリクワ銀貨も323年から発行されています。

 

シリクワ銀貨は、0.19gの金と同等の価値がありました。シリクワの名は、古代ローマの単位スクループルの6分の1の重さ0.19gが、ちょうどイナゴマメ1粒とと同じであることからこの木の名前(Ceratonia siliqua)が由来となています。

 

11世紀半ばから東ローマ帝国の経済力が大きく低下し、それに従ってソリドゥス金貨の金の保有率も50%、30%と下落し、その優位をドゥカート金貨に譲ったとされています。

しかし法律上は、1453年に東ローマ帝国の首都コンスタンティノーポリが陥落するまで有効であった通貨であり、まさに歴史に大きな足跡を残したといえるでしょう。



ソリドゥス金貨とアウレウス金貨から古代ローマ帝国の貨幣を知ろう

古代ギリシャとともに、ヨーロッパの基盤を作ったといわれる古代ローマ。その時代に生み出されたコインには、計り知れない歴史的価値が内包されています。

 

領土を拡大するだけではなく、征服した土地のインフラ整備にも熱心であったローマ人は、非常に勤勉でまじめな民族であったといわれています。お風呂好きであったことなども含めて、日本人との共通点が多いのも興味深いところです。その広大な帝国のトップであった皇帝たちはまさにローマ帝国の「顔」。

 

2000年の時を経て残った美しい貨幣から、彼らの想いをくみ取るのもコインコレクションの醍醐味かもしれませんね。