ナポレオン3世とは?ナポレオン金貨と近代的なフランス皇帝としての姿を追う

2020/9/21|著者: アンティークコインタイムズ編集部

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画像:(左)皇帝となった3年後にヴィンターハルターが描いたナポレオン3世像

 

ナポレオンという名は、欧州の歴史の中でも燦然と輝く存在です。功罪さまざまといわれるナポレオンですが、その肖像画は一般的にもよく知られています。ところが、ナポレオン3世となると、その存在がピンときませんね。実際には、現在のパリの基本的構造を作り上げたのはナポレオン3世でした。また、日本の最後の将軍徳川慶喜とも交流があったフランス皇帝でもあります。今日は、激動のヨーロッパを生きたナポレオン3世についてご紹介いたします。

 

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英雄ナポレオン1世の系譜

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画像:偉大なる叔父ナポレオン1世

ナポレオン1世は、「大」ナポレオンと称されるほどカリスマ的な存在を放つ皇帝です。歴史の中には、「ナポレオン」と名乗る人物がそれ以外に3人存在します。ナポレオン1世から始まる系譜を、ナポレオン3世も含めてみてみましょう。

 

直系の男子は早逝

ナポレオン1世と3世には、当然ナポレオン2世が存在しました。

ナポレオン1世の最初の妻ジョゼフィーヌは、前夫との間には子どもをもうけましたがナポレオンの子どもを生むことはありませんでした。ナポレオンは跡継ぎのことを考えジョゼフィーヌと離婚し、不惑を迎えるころにハプスブルク家の皇女マリー・ルイーズと再婚します。

そして生まれたのが、ナポレオン2世でした。ローマ王の称号を与えられたナポレオン2世は、3歳の時に父が失脚しその後はウィーンで育つことになります。長身の美男であり、英雄の血を引いていたナポレオン2世ですが、当時の欧州の情勢の中では微妙な立場であり続けました。

ナポレオン2世は流罪となった父と会うこともかなわず、21歳で夭折してしまうのです。

 

ナポレオン3世とナポレオン1世の関係

ナポレオン2世はナポレオン(1世)の正嫡の子でしたが、ナポレオン3世はナポレオンの甥にあたります。

ナポレオン3世の父はナポレオンの弟のルイ、母はジョゼフィーヌが前夫とのあいだに生んだオルタンスです。コルシカ島生まれのナポレオンはイタリア的に家族愛の強い人でした。兄弟姉妹をヨーロッパにおける要職に配置して、一族の栄達には非常に熱心であったのです。

そのため、幼少期はルイ=ナポレオンと呼ばれたナポレオン3世も、ホラント王国の王子として誕生しています。

 

叔父ナポレオン1世の絶頂期に誕生したナポレオン3世

ナポレオン3世が生まれた1808年は、ナポレオン1世が皇帝となって4年目。まさに彼の絶頂期でした。当時はまだナポレオンの嫡男であるローマ王は生まれていませんでした。ナポレオンが皇帝となって初めて一族に誕生した男児であったナポレオン3世は、その意味でも幸先の良い人生のスタートを切ったといえるかもしれません。

実際、スペイン遠征中であったナポレオン1世は、一族に生まれた男の子の誕生を祝って遠征軍に祝砲をうち鳴らさせたという記録が残っています。また、彼に「シャルル=ルイ=ナポレオン」と名を与えたのも、叔父のナポレオン1世であったのです。

 

若き日のナポレオン3世と複雑な政情

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画像:ナポレオン3世の躍進のきっかけとなった2月革命の様子

フランスの英雄としてもてはやされるナポレオンですが、革命に始まり共和制、帝政、王政、共和制、帝政と目まぐるしく変化するフランスの政情の中で生きていました。それはつまり、甥であったナポレオン3世にとっても難しい人生のかじ取りを余儀なくされたことを示しています。恵まれた出生から44歳で皇帝となるまで、ナポレオン3世はどんな日々を過ごしたのでしょうか。

 

ナポレオン1世の失脚と同時にボナパルト家は危機に

ナポレオン3世が叔父に会ったのは、ナポレオン1世がセント・ヘレナ島に連行させる直前であったといわれています。当時、ナポレオン3世は7歳。英雄であった叔父の抱擁の記憶がナポレオン3世の中に残っていたかどうかはわからないものの、個人的にナポレオン1世の熱狂的な崇拝者であった母オルタンスの影響は大きかったようです。

オルタンスはナポレオン1世が失脚してからも、ボナパルト家が欧州において積極的な役割を果たすべきだと、息子たちに語り続けたのでした。

 

王政の復活と若き日のナポレオン3世

ナポレオン1世の帝政が終焉を迎えた後、フランスはブルボン王家が一時的に復活します。

ナポレオン3世は優秀な家庭教師の下、1821年にはドイツのギムナジウムに進学し厳格な教育を受けることになりました。また、スイスでは軍人としての教育も受けて、ナポレオン1世の後継者の1人として、血気盛んな若者に育っていったのです。

ボナパルト家の星であったナポレオン2世が亡くなった後、ナポレオン3世は一族の年長者として「ナポレオン=ルイ・ボナパルト」と名乗るようになります。

 

ナポレオン3世によるクーデター未遂と世間の冷たい評価

イギリスやイタリアを見聞していたナポレオン3世は、1836年と1840年にクーデター未遂事件を起こしています。いずれも失敗に終わり、フランスの世論はナポレオン1世の甥の愚行という冷ややかな世論に傾いていきます。

しかし、ナポレオン3世のこうした政治的な活動によって、ナポレオンには後継者がいるという意識がフランス国内外に根づいたことはまちがいなかったのです。

ナポレオン3世はクーデターの失敗により拘束されますが、比較的快適であったこの監獄時代に学究生活に没頭したようです。その後、脱獄してロンドンに逃れたナポレオン3世は、1848年の2月革命でオルレアン家の王政が終わると、共和制となったフランスに復帰。ボナパルト家の後継者として、フランスでの人気を獲得することになります。

 

1852年にナポレオン3世として皇帝に

共和制となったフランスでは大統領選挙が実施され、他の有力な候補者を圧してナポレオン3世が大勝利を収めます。「ナポレオン」の名がもつ威力はとくに地方ですさまじく、ナポレオン3世はこれによって政界に躍り出ることに成功します。

その後、軍隊や警察、行政機構の権力を掌握したナポレオン3世は、1851年にクーデターを強行。1852年に、ナポレオン3世として皇帝となります。44歳にしてたどりついた、叔父と同等の地位でした。

 

美貌のスペイン貴族ウジェニーとの結婚

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画像:ナポレオン3世の宮廷の花であった皇后ウジェニー

皇帝となったナポレオン3世が王朝の安定化のために必要であったのは、正統な跡継ぎです。40代半ばのナポレオン3世は、皇帝にふさわしい妃を探し始めます。さて、その結果はいかに?

 

ナポレオン3世の派手な女性関係

「英雄色を好む」の格言にがたわず、ナポレオン3世は若いころから派手な女性関係で知られていました。クーデターから皇帝となったナポレオン3世は、ヨーロッパの由緒ある王侯貴族から見ると「成り上がり」というイメージを払しょくできず、その派手な女性関係もあって、なかなか皇妃となる女性が見つからなかったのです。

さらに、カトリック教会を重要な支持基盤に持っていたナポレオン3世にとっては、プロテスタントの王女では具合が悪かったという事情もありました。

結局、ナポレオン3世は側近たちの意見を無視して、自分が見初めたスペイン貴族の女性を妻に迎えるのです。それが、ウジェニー・ド・モンティジョでした。

 

誇り高きスペイン貴族ウジェニー

当時のヨーロッパで肖像画家として活躍したヴィンターハルターは、数多くのウジェニー皇妃像を残しています。そこには、ナポレオン3世の伴侶として華やかで高貴で品格のある女性が描かれています。

伝統あるスペイン貴族に生まれたウジェニーは、熱心なカトリック教徒であり保守的な女性でした。数多くの愛人がいたナポレオン3世もこの美しい妻の意向は無視できないほど、第2帝政のフランスに影響を与えることになるのです。

ウジェニー皇后はまた慈善活動にも熱心で、近代的な皇妃像を確立したことでも知られています。

 

晩婚の2人に待望の跡継ぎ誕生

1853年の結婚当時ナポレオン3世はすでに45歳、ウジェニーも26歳になっていました。そのため、跡継ぎとなる子供作りが急務でした。

2度の流産を経てようやく皇太子が生まれたのは1856年のことです。のちにボナパルト支持者からナポレオン4世と呼ばれるようになるこの皇子は、その聡明さをビクトリア女王からも愛されたと伝えられています。しかし1879年にズールー戦争で戦死し、ナポレオン3世の血脈も絶えてしまうのです。

 

皇帝としてのナポレオン3世

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不惑を超えて皇帝となったナポレオン3世は、叔父の1世と比べるとその業績も過小評価されがちです。若いころから各国を見聞し苦い経験も多かったナポレオン3世、実はもっと見直されるべきではという声は少なくありません。皇帝としてのナポレオン3世は、どんな人であったのでしょうか。

 

ナポレオン3世の巧みな外交|徳川慶喜とも交流があった

大河ドラマにもよく登場する最後の将軍「徳川慶喜」。徳川慶喜は、西洋風の軍服姿を写真に残しています。実はこの軍服や軍馬は、ナポレオン3世からの外交上の贈り物でした。

帝政の栄光を理想としたナポレオン3世は、軍事外交いずれの分野でもフランスの威信を対外に示すことに腐心しました。彼の時代に2度も開催されたパリ万国博覧会は、その戦略のひとつです。徳川慶喜の弟徳川 昭武は、このパリ万博を訪れています。

 

ナポレオン3世とパリの都市改造

ナポレオン3世がことのほか力を入れた事業のひとつが、パリの都市改造でした。それまでは中世の街並みを残してインフラも満足ではなかったパリの町を、近代的に改造したのがナポレオン3世でした。道路や公園、広場、水道、街灯などを整備し、衛生的な面でもパリの町は近代化を遂げることになったのです。

 

ナポレオン3世の失脚と共和制の復活

ナポレオン3世は積極的な外交を展開したものの、それがあだとなる例もありました。

ハプスブルク家が絡んだイタリア統一戦争やメキシコ出兵がその例で、とくに後者の場合はハプスブルク家のマキシミリアン大公を見殺しになる結果となり、ナポレオン3世の評判を落とす結果になります。

そして、ナポレオン3世の失脚を決定的にしたのがプロイセンとの戦争でした。18970年9月にフランスは降伏し、ナポレオン3世は捕虜となってしまいます。当時すでに60歳を超えていたナポレオン3世は、気力も体力も衰えていたのかもしれません。ウジェニー皇后の叱咤激励にもかかわらず、あっさりと降伏し退位します。

その後は家族でイギリスに亡命し、ボナパルト家の時代を育てるべく息子の教育に熱心であったと伝えらえています。そして退位から2年後、64歳でイギリスにおいて死去。ボナパルト家の2人目の皇帝も、フランスの国外でその生涯を終えました。

 

ナポレオン金貨|ナポレオン3世の肖像

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本項の主役ナポレオン3世は、金貨の鋳造にも熱心な皇帝でした。その彼を刻んだコインについてご紹介いたします。

 

ナポレオン金貨の意味するもの

ナポレオンといえば、ナポレオン3世の叔父の1世を指すことが多いのが常識。しかし、コインの世界で「ナポレオン金貨」といえば、そこに刻まれているのはナポレオン3世の横顔なのです。

20フランを中心に大量に鋳造されたナポレオン金貨は、150年を経た今も比較的入手しやすいコインとして知られています。ナポレオン3世は、金融や経済政策も熱心に行った皇帝でした。金貨の鋳造も、その一環であったのでしょう。

 

叔父に似た短躯ながら馬上の姿はピカ一!

ナポレオンは身長が低いことで知られていますが、甥のナポレオン3世も同様でした。

しかし、皇帝らしくひげを蓄えた容姿はいかにも威厳があります。コインに刻まれた横顔は、皇帝のシンボルである月桂冠を頭部に飾っています。それがしっくりとくるほど、格調高い容貌ですね。また、ナポレオン3世は短躯ながら騎馬姿が非常に美しく、当時の人々のあいだでは有名でした。

 

まとめ

ナポレオン3世は、偉大なる叔父の名前に「3世」がついているために、かえってその姿がぼやけてしまっている皇帝かもしれません。フランス革命に始まり、揺れに揺れたフランスの政情にあって決してあきらめることなく権力の座に上りつめたナポレオン3世。都市改造をはじめとする近代的な戦略を次々に行い、フランスの威信を世界に知らしめました。武人としてよりも文官として才能のあったナポレオン3世、日本とも交流があったフランス皇帝としてもっと注目されてもよい存在ですね。

 

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<参考文献>

  • ナポレオン四代 野村啓介著 中央公論新社
  • ハプスブルク家12の物語 中野京子著 光文社新書

タグ: ヨーロッパの歴史

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著者:アンティークコインタイムズ編集部

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