マリア・テレジアとは?オーストリア唯一の「女帝」について解説

 

オーストリアの女帝マリア・テレジア、と聞いてもピンとこないかもしれません。

かの有名なフランス王妃マリー・アントワネットの母といえば通りがよいかもしれません。

マリア・テレジアは18世紀にハプスブルク家に生まれ、実質的に女帝として帝国に君臨しただけにとどまりません。ハンガリー女王やボヘミアの女王など、有していたタイトルは10指に余るほど。

そのマリアテレジアの生涯と、彼女に縁のあるコインについてご紹介したいと思います。

 

マリア・テレジアとは

▲マリア・テレジアが愛したシェーンブルン宮殿

 

マリア・テレジアは、1717年にハプスブルク家の神聖ローマ皇帝カール6世の皇女として誕生しました。当時の神聖ローマ帝国は男系優先。その世相の中で、マリア・テレジアが「女傑」と呼ばれるほどヨーロッパの歴史の中で重きをなした理由をご紹介したいと思います。

 

16人の子の母!

多産系で知られるハプスブルク家の中でも、マリア・テレジアは突出した存在。

17歳でロートリンゲン家のフランツ1世と結婚してから29年の結婚生活の中でもうけた子どもの数、なんと16人!

 

しかもマリア・テレジアは、妻であるだけではなくハプルブルク家の実質的な当主として政務も行いながらのこの偉業。まさに、ミセス・タフネスといった趣です。

16人の子供たちは残念ながら、傑物であった母には及ばないことが多かったようです。その代表が末っ子のマリー・アントワネット。フランス王妃となったものの、最後は断頭台の露と消えました。この時まで母マリア・テレジアが存命でなかったのは不幸中の幸いと言えるかもしれません。

 

生涯のライバルプロイセン王フリードリヒ2世

マリア・テレジアの父カール6世は男児の後継ぎがいなかったため、苦心して相続順位法を定めてマリア・テレジアの地位を盤石にしようと努めました。

 

しかし、1740年にカール6世がなくなるとフランス王やバイエルン、ザクセンの王がこれに異を唱え始めます。最も強硬であったのが、プロイセン王フリードリヒ2世でした。カール6世死去からわずか2か月後、フリードリヒ2世はオーストリア領シュレージェンを力づくで奪取してしまうのです。

 

ともに1740年に君主となったマリア・テレジアとフリードリヒ2世は、生涯を不倶戴天の敵として戦うことになります。西洋史上、屈指の名将軍といわれたプロイセン王と伍して一歩譲らなかったマリア・テレジア、当時のヨーロッパの列強からも一目置かれる存在でした。

 

美貌も武器に!大胆な戦略で広大な帝国をまとめる

1740年当時、マリア・テレジアがハプスブルク家の当主となった時代は、彼女にとっても苦難の出発点でもありました。

16人の子を産んだマリア・テレジアは、のちにかなりの肥満体となるのですが、若いころの彼女はすらりとした美貌の女性でした。

 

23歳という若さでハプスブルク家を背負うことになったマリア・テレジア、ヨーロッパ各国の非協力的な態度、重臣たちの無能ぶりをものともせずに、反ハプスブルクの火種がくすぶるハンガリーに乗り込みます。

命の危険も顧みず、反オーストリアの風潮が根強いハンガリーの議会で、マリア・テレジアは自らの窮状を訴えました。

父帝を失ったばかりの美貌のマリア・テレジア、純白の衣装に身を包み涙ながらに心情を吐露し、一方では粘り強く交渉を進めました。そしてなんと5か月後、数万の兵と多額の軍資金をオーストリアに提供することに合意させてしまうのです。

 

いざとなれば捨て身の戦法も辞さないマリア・テレジアの手腕は、ライバルであったフリードリヒ2世の心胆を寒からしめ、各国の態度を軟化させました。

 

ウィーンっ子に大人気の女帝

有能な政治家であったいっぽうで、マリア・テレジアは非常に気さくな面も持ちあわせていました。歴代のハプスブルク家の当主の中でも、彼女ほどウィーン子と親しく接した人はいなかったといわれています。

それはもちろん、市民のありのままの姿を知ろうというマリア・テレジアの政治スタイルの反映でもあったのですが、ウィーン市内の教会の聖体拝領や音楽会にも気軽に参加し、市民と交流があったことが伝えられています。当然、庶民にも絶大な人気があった女帝でした。

 

 

マリア・テレジアの年表

▲ティーンエイジャーのマリア・テレジア

 

欧州随一の名門ハプスブルク家の当主として君臨したマリア・テレジア。

彼女の生涯を追ってみましょう。

 

誕生から結婚まで

マリア・テレジアが誕生したのは1717年。

日本は江戸時代、ちょうど8代将軍徳川吉宗が将軍となろうとしていた時代です。

神聖ローマ皇帝カール6世と皇后エリザベト・クリスティーネの長女として誕生した彼女、幼少期から聡明で美しい大公女として人気が高かったようです。

1736年、19歳で幼馴染のロートリンゲン公フランツと結婚します。結婚後、立て続けに公女が3人も誕生し、「オーストリアはスカートしかはけない」と揶揄されました。

 

即位から夫の死まで

1740年、父帝の死に伴い23歳でハプスブルク家領を一括相続します。

しかし、男性優先の当時のヨーロッパではこれに肯んじない周辺各国が、次々とオーストリアを狙い始めるのです。

4人目の子を妊娠していたマリア・テレジアは、オーストリア継承戦争に巻き込まれることになりました。1741年に待望の男子が誕生。この子がのちに、ヨーゼフ2世となります。

シュレージェンをプロイセンに奪われ、モラヴィアをザクセンに、神聖ローマ帝国位をバイエルンに奪われるという満身創痍の中、マリア・テレジアは列強の圧力に屈しませんでした。

結局、神聖ローマ帝国位はマリア・テレジアの夫フランツが1745年に奪取しました。実質的にはマリア・テレジアが統治していたため、彼女は「女帝」と呼ばれているのです。

しかし、肥沃な土地として知られたシュレージェンはプロイセンから取り戻すことができず、マリア・テレジアはこの地の奪還に生涯こだわり続けたといわれています。

対プロイセン戦略のため、父帝の時代からの無能な重臣を見限り根本的な国家改造に着手します。女性としては珍しく骨太の政治力を持っていたマリア・テレジアは、家柄や身分にこだわらず、斬新な発想の若い世代や新種の気性に富んだ吏員を積極的に登用します。人材を見出す天才といわれたマリア・テレジアのこうした政策はすべてあたり、若い世代がそれぞれの領域で実力を十全に発揮することになりました。

保守的な風潮が強かったハプルブスク家の宮廷において、マリア・テレジアの斬新な政策は画期的なものでした。

1754年には、オーストリアでは初となる国勢調査も行っています。

その他、軟弱であった軍隊の再編成、医療水準の向上、教育制度改革、宗教界の刷新などなど、1代に1つできれば満足といえる政策を次々に断行。

女傑の名に恥じない有能な政治家であることを内外に示し続けました。

この手腕は、外交面でも発揮されます。

宿敵プロイセンをけん制するために、マリア・テレジアはロシアのエリザベータ女帝、フランス王の寵姫ポンパドゥール夫人と密談を重ね、「三枚のペチコート」と呼ばれるプロイセン包囲網を敷くことに成功しました。

ヨーロッパにおいて犬猿の仲と呼ばれたオーストリアとフランスの同名は、プロイセンを大いに狼狽させることになります。

このオーストリアとフランスの同盟の結果の行き着いた先が、マリア・テレジアの末子マリー・アントワネットのフランスへのお輿入れ、というわけです。

1765年、マリア・テレジアはよき伴侶であった夫フランツ1世を失います。

特に優れた政治家ではなかったものの、たぐいまれなる器量に恵まれたマリア・テレジアとは琴瑟相和した仲でした。彼女はこの後、喪服を脱ぐことはなかったそうです。

 

息子ヨーゼフ2世との共同統治から死まで

48歳で寡婦となったマリア・テレジアは、長男のヨーゼフ2世と共同統治の時代に入ります。

しかし、夫の死後のマリア・テレジアはかつての輝きを失っていきました。急進的な政策を打ち出す息子ヨーゼフ2世と対立することが増え、晩年のマリア・テレジアに対しては寵臣たちも批判的な態度を示すなど失策も少なくなかったのです。

生んだ16人の子供のうち、成長したのは10人。それぞれが政略結婚しましたが、マリー・アントワネットの不幸をはじめ子どもたちの結婚生活も順風満帆ではありませんでした。

1780年、マリア・テレジアは亡くなります。享年63歳。

今は、愛する夫フランツ1世とともにウィーンのカプツィーナー礼拝堂に眠っています。



マリア・テレジアのアンティークコイン

▲1780年発行のターレル銀貨

オーストリアにその人ありといわれ、列強から畏れられたマリア・テレジア。彼女とコインにはどんなエピソードがあるのでしょうか。

 

マリア・テレジアとターレル

ドイツやオーストリアにおいて、15世紀から19世紀に流通した貨幣に「ターレル」があります。

とくにマリア・テレジアの治世下、1740年から1780年に鋳造されたターレルは彼女のプロパガンダも兼ねて、オーストリア国内だけではなくボヘミアやハンガリーでも発行されました。

 

マリア・テレジアのパターン金貨、1千万円強で落札!

2021年3月にテキサス州ダラスで開催されたヘリテイジ・オークションで、マリア・テレジアのパターン金貨が$102,000(約11,100,000円)で落札されました。

パターンコインは試作コインとも呼ばれる希少なものであるうえ、プルーフコインの範疇となる金貨であることも評価が想像以上に上がった理由かもしれません。

 

まとめ:ハプスブルク家当主マリア・テレジア

18世紀のヨーロッパを語る上で、女性でありながら主役級の重要度をもつマリア・テレジア。

23歳で即位し63歳で亡くなるまで、ハプスブルク家の当主として帝国を統治し、ヨーロッパの歴史を左右した女性でした。

日本ではフランス王妃マリー・アントワネットの母として知られている彼女、16人の子供の母でもあり公私双方で興味深い人物といえるでしょう。

コインを収集するうえで、ぜひ知っておきたいヨーロッパの偉人のひとりなのです。