英国王ジェームズ2世!地味で国民人気もイマイチだった彼の一生とは

2020/7/15|著者: アンティークコインタイムズ編集部

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1685年に兄の後を継いで英国王となったジェームズ2世。陽気な王様として人気があったチャールズ2世とは性格を異にし、かたくなな性格とカトリック信仰で、英国民の人気はイマイチであった王様です。

しかし、2人の娘はそれぞれ女王として即位し、英国の王位がスチュアート家からハノーヴァー家へと変遷していく過渡期に生きた王でもありました。ジェームズ2世の王としての足跡を追ってみましょう。

 

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似て非なる女性たちとの関係 チャールズ2世とジェームズ2世

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図:父のチャールズ1世と少年時代のジェームズ2世

 

スチュアート王朝の4代目となるジェームズ2世は1633年生まれ。兄のチャールズ2世とは、3つちがいの兄弟でした。

 

父は英国王とスコットランド王を兼ねていたのチャールズ1世、母はフランスの王女ヘンリエッタ・マリアです。父の家系も母の家系も、まさに欧州の「青い血」を引く生粋の貴族であったといってまちがいありません。

 

王弟であったジェームズは、兄に嫡子が生まれていれば王位に就くこともなかったヨーク公でした。女性関係が派手であったにもかかわらず不思議な愛嬌があったチャールズ2世は、国民に絶大な人気がありました。

 

愛妾たちとの間に次々と庶子をもうけ、彼らに愛情も金銭も爵位も惜しみなく与えた王様として知られています。子どもができなかった王妃に対しても、カトリック教徒であることを理由にイギリス国民の人気は得られなかったにもかからわず、正妻として篤く遇していたのがチャールズ2世でした。

 

弟のジェームズも、兄と似たりよったりの女性好きであったにもかかわらず、女性の好みはまるで異なっていました。チャールズ2世が選ぶ女性たちは、非常にわかりやすい美しさに恵まれていたため、イギリス国民にも「なるほど」と思わせる説得力があったのです。

 

ところが、ジェームズ2世が選んだ女性たちは周囲が注目するような美しさがなく、チャールズ2世が女性や子供たちをわけへだてなく愛したのとは対照的に、ジェームズ2世は女性にはドライな態度をとるのが通常でした。

 

一説によれば、ジェームズ2世の女性の選び方は女性の教養を重んじたためともいわれています。たとえば、政治家サー・ウィンストン・チャーチルの娘アラベラは、やせぎすで顔色もよくない目立たない女性だったそうです。アラベラはある日落馬し、普段はスカートに隠れていた脚があらわになってしまいました。その曲線美に惹かれて、ジェームズ2世が愛妾にしたというエピソードがあります。

 

実際にはアラベラの教養が、ジェームズ2世を惹きつけたようです。ちなみに、アラベラとジェームズ2世のあいだに生まれた長女の血が、故ダイアナ妃に流れています。

 

また、劇作家サー・チャールズ・シードリーの娘キャサリン・シードリーも、ジェームズ2世の愛妾の1人でした。才人といわれた父の血を引いて、ウィットにとんだ会話をさせれば宮廷一といわれたキャサリンを、ジェームズ2世はいちのお気に入りとしていました。数多くいた愛人の中では唯一、キャサリン・シードリーにだけはドーチェスター伯位を与えています。爵位を連発しないところも、兄王のチャールズ2世とは異なっている点です。

 

性格も顔立ちも地味であったジェームズ2世は、イギリス国民にはとっつきにくいイメージがあったようです。そこでつけられたあだ名は、兄のチャールズ2世が「グルメ」、弟のジェームズ2世は「グルマン」でした。「グルマン」とは、「大食い」を意味します。チャールズ2世の女性選び方が「グルメ」であったのに対し、ジェームズ2世のそれは「大食い」であった、というわけですね。



2度の結婚と跡継ぎ問題

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図:最初の妻アン・ハイドとジェームズ2世

 

チャールズ2世は、王としてポルトガル王女を王妃に迎えて体面を保ちました。ところが、当時は王弟であったジェームズ2世の妻選びは、いかにも次男らしいものでした。

 

ジェームズの最初の妃は、アン・ハイドという女性です。彼女は、亡命時代のスチュアート家を支えたエドワード・ハイドという貴族の娘でした。アンは、ジェイムズの母ヘンリエッタ・マリアのもとに仕えており、その亡命先サン・ジェルマンの館でジェームズと出会ったようです。

 

当初はアンに関心を持たなかったジェームズはなぜか、2年後に再会したときにはアンに強く狭り「2人のあいだに生まれる子供は、嫡出子とするから」と男女の関係になったのだとか。

 

1660年にアン・ハイドは懐妊しますが、ジェームズはなぜか結婚を渋っていました。ここに介入したのが、兄王チャールズ2世です。愛人と子ども、王妃の世話焼きであったチャールズ2世は、弟の女性関係にも介入、「男が約束したのだからそれは守るべきだ」とさとしたそうです。そのため、ジェームズとアン・ハイドは、1660年9月に「できちゃった婚」をしています。

 

アン・ハイドは、ジェームズとの間に7人の子どもを産みますが、育ったのはのちに女王となるメアリーとアンの2人だけでした。アン自身も、1671年に8度目のお産で亡くなり、王妃になることがないままでした。

 

その2年後、1673年にジェームズはイタリア貴族の娘メアリー・オブ・モデナと結婚します。2人の年の差、なんと25歳!信仰面についてはプロテスタントのイギリス国民を気遣って自らの思いをあからさまにしなかったチャールズ2世と異なり、ジェームズははっきりとカトリック教徒であることを明言していました。

 

そこに、バリバリのカトリック教徒でありイタリア貴族のお姫様が妃としてやってきたため、イギリス国民はこの2人に子供が生まれないことを祈ったといわれています。

 

というのも、ジェームズが先の結婚でもうけたメアリーとアンはプロテスタントとして育っており、この2人ならば英国の長として問題ないものの、再婚から生まれるカトリックの王子が王になることだけは避けたい、というのがイギリスの政府や国民の思いであったのです。

 

結婚当時、40歳と15歳であった夫婦の間には1男4女が生まれるもののすべて夭折してしまいます。ところが、ジェームズ2世として即位した2年後、王妃メアリーが懐妊するのです。プロテスタントの重臣も国民もこれを信じようとせず、その妊娠が作り話であることがまことしやかにささやかれるようになります。

 

そのため、メアリーは英国の王妃としては初めて、出産確認者立会いのもとでの出産をすることになりました。こうして生まれたのが、ジェームズ・フランシス・エドワードという王子です。

 

この王子の誕生は、そうでなくてもまったく人気がなかったジェームズ2世を廃位に追い込む動きに拍車をかけることになったのです。プロテスタントの家臣たちの思いは、ジェームズ2世の娘メアリーの冊立に向かうことになります。



名誉革命とジェームズ2世

1688年11月、プロテスタントのイギリス人がメアリーとその夫オレンジ公ウィリアムの兵力を頼り、実際にオレンジ公が1万4000の兵を率いてイングランドに上陸します。ジェームズは亡命を決意し、ウィリアム3世とメアリー2世の共同統治の時代がはじまるのです。

 

ジェームズ2世は、1度は王位奪回のため反攻の軍を起こしたものの成功せず、1701年に無念のままフランスのサン・ジェルマンで亡くなりました。このクーデターが「名誉革命」です。ほとんど大きな戦争もなかったため、「無血革命」とも呼ばれています。

 

最後まで英国王位を諦めきれなかったのか、遺体はウェストミンスター大寺院に埋葬するようにという遺言が残されていました。しかしその想いもかなわず、ジェームズ2世は今もサン・ジェルマンの地に眠っています。

 

ジェームズ2世は、フランスに亡命するにあたってっ息子のジェームズ・フランシス・エドワードと王妃メアリーをともに連れて行きました。息子ジェームズ・フランシス・エドワードは後に、大僭称者と呼ばれて英国におけるカトリック教徒たちの期待を一身に担うことになります。

 

カトリック教国であるフランスやローマ法王庁は、ジェームズ・フランシス・エドワードを正式な英国の王として認めたこともあり、メアリー2世を担ぎ出した英国もしばらくはこのジャコバイトに悩まされる時代が続くのです。

 

ちなみに、ジャコバイトとは「ジェームズ」のラテン語名です。ジェームズの直系の男子こそ正統とする人びとが、のちにこう呼ばれるようになったのです。

 

メアリ2世と夫のウィリアム3世は世継ぎに恵まれず、妹のアンが女王となります。しかし、彼女の子どもたちもそろって夭折。その後は、ドイツのハノーヴァー家がイギリスの王位につくことになるのです。

 

ジェームズ2世のアンティークコイン

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これまでの英国王の中でも国民人気があまりなかったジェームズ2世。コインの人気もイマイチかと思いきや、そんなことはありません。ジェームズ2世のアンティークコインは非常に人気で価値が高いとされています。

 

その理由は、ジェームズ2世のコインの希少性。ジェームズ2世が王として在籍していたのはたった3年で、そもそものコインの発行枚数が極めて少なかったため、希少価値が高くなっているのです。

 

アンティークコイン通なら見逃さないのがコインに掘られた「Elephant&Castle(像と城)」の刻印。実は、兄チャールズ2世の金貨にも同様の刻印が確認されています。この刻印があるかないかで、そのアンティークコインの人気は大きく異なり、売買価格にも如実に現れます。

 

「Elephant&Castle(像と城)」の刻印が入ったアンティークコインで有名なのが、1688年ジェームズ2世5ギニー金貨。グレードが良いものだと、1枚あたり1,000万円前後の価格がつくこともあります。

 

最後に

カトリックとプロテスタントが拮抗する時代にイギリスの王となったジェームズ2世。兄のチャールズ2世の卓越した人心掌握の才に恵まれなかったジェームズ2世は、兄の跡を継いでイギリス王となりながら最後は王位を追われてしまう運命にありました。

しかし、娘2人は相次いで即位し、スチュアート朝の最後を飾ることになります。


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タグ: イギリスの歴史

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