チャールズ2世とは?イギリス国民から愛された「陽気な王様」

 

フランスに君臨した太陽王ルイ14世の時代に、イギリスの王であったのがチャールズ2世です。奔放な私生活にもかかわらず、イギリスの王様の中ではことのほか国民に愛されたチャールズ2世。カトリックとプロテスタントという、キリスト教会の二大勢力のはざまで生きた王でもあります。ルイ14世は自らの神格化に熱心でしたが、チャールズ2世の魅力は茶目っ気のある人間性にあるといえるかもしれません。彼はいったい、どんな王様であったのでしょうか。詳しくみていきましょう。

 

 

チャールズ2世の生涯と家族|メディチ家の血もひく英国王

▲チャールズ2世の肖像画

現在のイギリスの皇太子チャールズは、即位をするとチャールズ3世となります。そう、長い英国王室の歴史において、チャールズという名前を持つ王はこれまで2人しかいません。

 

チャールズ2世の生まれは1630年

チャールズ2世が生まれたのは、今から400年近い前の1630年。チャールズ1世とヘンリエッタ・マリア王妃の次男として、セントジェームズ宮殿で生誕しました。その8年後、太陽王といわれたフランスのルイ14世が生まれています。

チャールズ1世と王妃の間には、長女メアリー・ヘンリエッタ、次女エリザベス、三女のアン、四女キャサリン、五女ヘンリエッタ・案、三男のジェームズ、四男ヘンリーがいます。

日本の皇室と違い、女性にも継承権があった英国では、女性が即位したり、王女の夫が王になったりするたびに王朝名が変わります。チャールズ2世は、スチュアート朝の3代目(在位1660年から1685年)です。

 

チャールズ2世と家族関係

父チャールズ1世は、放埓な王が多かったイギリスの王の中では非常に生真面目な人でした。それがあだとなり、宗教弾圧や反乱に巻き込まれて1649年にチャールズ1世は処刑されてしまいます。
当時二十歳そこそこであった息子のチャールズも、フランスやオランダに亡命することを余儀なくされました。

母のヘンリエッタ・マリアは、フランスの王女です。つまり、チャールズ2世は英国王であるだけではなく、フランス王家とも血の濃い親戚でした。太陽王ルイ14世とは、従兄弟同士になります。また、ヘンリエッタ・マリアは、メディチ家のマリーを母としているため、チャールズ2世はイタリアのメディチ家の血もひいていることになります。まさに、ヨーロッパにおける貴種中の貴種として生を受けたのです。

両親の夫婦仲は政略結婚としてはまれなほどよく、チャールズ1世は王妃以外の女性と関係を持つこともなかったといわれています。チャールズ2世は、残念ながら王妃との間に嫡子を持つことができませんでした。そのため、チャールズ2世の弟が後を継ぎます。この弟がジェームス2世で、まさに華麗なる一族といった趣。

きらびやかな家系に生まれながら父のチャールズ1世が処刑されたことでもわかるように、当時のヨーロッパはカトリックとプロテスタントが勢力が拮抗し、紛争が絶えない時代でした。しかし、チャールズ2世は、陽気で人間的な王様としてイギリス国民に愛され続けたのです。

 

恋に生きた「陽気な王様」チャールズ2世

紆余曲折を経て、チャールズ2世がイギリスの王位を継いだのは1660年です。ちょうど、30才を迎えるころのことでした。根っからの女性好きであったチャールズ2世は、政変や亡命といった境遇の中でも女性たちとの恋に事欠きませんでした。そのため、即位したときにはすでに数人の庶子の父でもあったのです。

 

1661年にキャサリンと結婚

即位の翌年、許婚者であった8歳年下のキャサリンと結婚します。キャサリンは、ポルトガル王家の娘でした。余談ですが、当時東洋との交易で潤っていたポルトガルからキャサリン妃がもたらしたのが、紅茶です。彼女によって、イギリスのティータイムという文化が生まれています。

しかし、当時のイギリスは、ほぼ英国国教会の支配下にありました。南欧の伝統の忠実に、生粋のカトリック教徒であったキャサリン王妃は、英国での人気がまったくありませんでした。

 

チャールズ2世と14人の愛妾

公式の愛妾の数が14人というとんでもない夫であったチャールズ2世ですが、女性を泣かすという無粋とも無縁の優しい男性であったようです。英国国教会の典礼による戴冠式まで拒否するという頑固なキャサリン妃を、生涯かばい続けました。

14人という愛妾たちに対しても、チャールズ2世は非常にマメな恋人でした。チャールズ2世は女性たちに強権をふるうこともなく、逆に女性たちのほうが嫉妬や独占欲から騒ぎを起こすという状況が頻々と起こったようです。それぞれから生まれた子供たちにも分け隔てなくかわいがり、叙爵から結婚まで父親らしいおせっかいを発揮しています。

数多い愛人の中でも、とくに有名なのが女優のネル・グインでした。ロンドンで大人気であったネル・グインは、その機知を愛されてチャールズ2世の愛人となり子供ももうけています。貴族階級の愛人たちとは異なるざっくばらんなネルをチャールズ2世は心から愛し、死にゆく際にも「ネルを飢えさせないでくれ」と言ったと伝えられています。とにかく、その数にもかかわらず、女性たちにも子どもたちにも惜しみなく金銭と位階と愛情を与えたのが、チャールズ2世でした。

 

 

絶世の美女であった愛人を「ブリタニア像」のモチーフに

 

チャールズ2世の気持ちを知りながらコケティッシュに宮廷を泳ぎ回り、その美女ブリからコインの意匠になった女性もいます。この女性の名前は、フランセス・スチュアート。たぐいまれなる美貌から、「スチュアートの佳人」と呼ばれていました。

 

チャールズ2世とフランセス・スチュアート

彼女は、チャールズ2世と同じくスチュアート家の分家の家柄で、10代からチャールズ2世の妹の女官としてフランスの宮廷で恋の手管を磨いたようです。

チャールズ2世が即位して3年後に英国の宮廷に戻ったフランセスは、彼女に執心するチャールズ2世とはつかず離れずという関係を続けて、彼をやきもきさせました。家柄も問題がなかったため、チャールズ2世の側近たちは、子どもができない王妃を離婚させてフランセス・スチュアートを王妃にすることも進言したと伝えらえています。

しかし、王妃としてのキャサリンを大事にしていたチャールズ2世が、これを受け入れることはありませんでした。恋と王としての責務は別と考えていたのでしょう。

 

王妃キャサリンに取り入るフランセス・スチュアート

フランセス・スチュアートは、王族の血を引くリッチモンド公爵と思い思われる中になります。しかし、結婚に関してチャールズ2世の許可を得ることは不可能と察したフランセスは、なんと王妃キャサリンの袖にすがるのです。キャサリンは、2人が駆け落ちすることを勧め、恋する2人は王妃のお墨付きの駆け落ちをするにいたります。

 

フランセス・スチュアートを「ブリタニア像」に

▲イギリス50ペンス貨のブリタニア像

チャールズ2世はそれを知って激怒したものの、よほどフランセス・スチュアートの美貌に未練があったのか、1672年に発行されたハーフ・ペニー銀貨に彼女の姿を刻みました。また、即位後に王政復古を記念して発行した「ブレダ記念メダル」にもフランセスが刻まれています。

現在も、英国の50ペンス貨には鉾と盾を持った「ブリタニア」として、フランセスの姿を見ることができます。「ブリタニア」とは、イギリスという国を擬人化した像です。フランセスをモデルにしたブリタニア像のコインは、チャールズ2世以後の国王たちよって発行され続けて、イギリスでは最も息の長いコインとなっているのです。
フランセスはその後、駆け落ちまでした夫を早く失い、英国の宮廷に戻りました。1702年に亡くなるまで、宮廷に仕えていたようです。

 

チャールズ2世の血筋|故ダイアナ妃とチャールズ皇太子の妃カミラ夫人

ヨーロッパの高名な貴族や王族の血を引いていたチャールズ2世は、王妃との間に子どもがいませんでした。そのため、王位は弟に譲っています。

一方で、チャールズ2世と愛妾たちとの間に生まれた子供は14人。それぞれの子どもが将来困らぬよう、持参金付きの嫁を迎えたり爵位を与えたりと心を配りました。

美しいプリンセスとして今も絶大な人気を誇る故ダイアナ妃は、このチャールズ2世の嫡子たちの血を色濃く継いでいます。

独占欲が強かったバーバラ・ヴィリアーズ所生のグラーフトン公爵、権勢欲の強かったルイーズ・ドゥ・ケロワール所生のリッチモンド公爵、また一番最初の愛妾ルーシー・ウォルター所生のメアリーの子孫に当たるのが、故ダイアナ妃なのです。

また一説には、現チャールズ皇太子夫人カミラも、リッチモンド公爵の末裔であるのだとか。

そしてもちろん、故ダイアナ妃を通じてチャールズ二世のDNAはウィリアムとハリー両王子にも伝わったというわけです。爵位を子供たちのために気前よくふるまったために、現在の英国王室にもチャールズ2世の血を引く人々がひしめいている状態なのです。

 

チャールズ2世と宗教|キリスト教の宗派のあいだで揺れた生涯

チャールズ2世が生きた時代は、キリスト教会のさまざまな宗派が複雑に絡み合い、紛争が絶えなかった時代です。

イギリス王の離婚から始まる英国国教会は、宗教上の教義ではなく政治的な思惑から生まれた宗派でした。そのため、英国内でその勢いが強くなると、母も妻もカトリック教徒であったチャールズ2世は王として非常に肩身が狭かったようです。

チャールズ2世自身は、英国国教会の典礼による儀式に参加していたようですが、個人としての宗教は現在も謎が多いといわれています。

伝説では、亡くなる直前にチャールズ2世はカトリックの司祭を呼び、「私の魂を救ってほしい」と語ったと伝えられています。

チャールズ2世が生涯かばい続けた王妃キャサリンは、チャールズ2世の死後は国民に疎まれて、故郷ポルトガルで余生を過ごしています。

 

チャールズ2世のギニー金貨

▲チャールズ2世 5ギニー金貨

チャールズ2世の肖像が刻まれたコインはいくつか存在していますが、中でも有名なのが5ギニー金貨です。チャールズ2世の時代から5ギニー金貨が始まりました。

コインの鋳造方法の話をすると、5ギニーから機械式(それまでは手打ち)に変わったという歴史があるのですが、当時は精度にばらつきがあり、綺麗なコインは少なかったそうです。さらに、一般に流通していた貨幣でもあったので、現在まで良い状態を保って残っている5ギニー金貨は少ないのです。

そのため、チャールズ2世の5ギニー金貨も、非常に希少な品となっています。

 

チャールズ2世のプルーフコインは1億円を超える!?

 

 

チャールズ2世の時代に、初めて登場したものがあります。それが、流通ではなくコレクションを目的としたプルーフコインです。

1662年に世に出たこのプルーフコインは、当時の欧州でも屈指の技術力をもった英国の王立造幣局によって発行されました。しかし、発行枚数は極端に少なく、チャールズ2世によってっ発行されたプルーフコインも、存在が認められているのはごくわずかです。そのうちの1枚は、ニューヨークのメトロポリタン美術館が所蔵しています。

世界のコインコレクターたちの垂涎の的でもあるチャールズ2世のプルーフコイン、市場では1億円の値がつくのだとか。

 

チャールズ2世の生涯とプルーフコイン

政治的にも私生活においても波瀾万丈であったチャールズ2世ですが、カリスマ的な人気もがり、英国王室の歴史の中では独特の存在感を放ちます。現在の英国王室にも、彼の血が連綿と流れているのです。

コインに刻まれた親しみやすい風貌も人気も人気の要因であり、その希少性とともにチャールズ2世のプルーフコインはコレクターたちの垂涎の的になっています。